7月, 2011年
2011.7・8月号
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」
ヨハネによる福音書1:18
名寄幼稚園宗教主任 ロバート・ウイットマー
私たちの目に見えないものはたくさんあります。電気も見えないし、空気も見えません。考えてみたら感謝、信頼、愛とか、そう言ったものも目に見えません。その結果を見て、あるいはその具体的な形を見て初めて分かるものがたくさんあります。誰も目で見たことのない神も同じです。しかし、スイッチを入れれば電気が分かるように、母の日に花をもらって感謝が分かるように、人間の歴史に生まれ、私たちと共にこの世を生きたイエス・キリスト(独り子である神)を見れば神と神の愛を知ることができます。聖書はそのことを私たちに伝えようとしていると思います。イエスは病気に癒しをもたらし、無力さを感じている人々に自尊心と可能性を与え、苦しんでいる人々の苦しみを和らげることによって神の働きを示し、またその死と復活によって神の愛がすべての力より強いことを示されました。イエスが自分の仲間に語った最後の言葉は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という言葉でした。ですからイエスは今も私たちのために神を示して下さいます。もし、私たちが聖書の神をもっと知りたいと思ったらイエスを見ればいいのです。イエスに近づけばいいのです。イエスに学べばいいのです。イエスと共に歩けばいいのです。そのためにイエスはこの世界に生まれたのです。そうすれば私たちは目に見えない神をもっと身近に感じられるようになります。
2011.6月号
「幻がなければ民は堕落する」 箴言29:18
名寄幼稚園宗教主任 ロバート・ウイットマー
この言葉は旧約聖書の箴言に記されています。箴言は聖書の中で「知恵の文学」と言われていて、数多くのことわざが記録されているところです。私たちに生きる知恵を教えてくれる言葉だと思います。「幻」は今まだ見えないかもしれないけれど私たちが向かっている、あるいは目指しているものを意味します。「目標」また「目的」ともとらえていいと思いますが、これがないと私たちの行動は堕落すると聖書は言っています。「堕落」するということは本来の姿と価値を失うことで、私たちの生活そのものが崩れることだと思います。
今月名寄幼稚園の運動会があります。子どもたちは楽しく、また一生懸命参加すると思います。一つひとつの競技の「目標」をしっかりと見ているからこそそれに向かって参加することができ、それを見失ったらどうしたらいいかわからなくなってしまうのではないでしょうか。
同じように私たち人間にとって生きる目標(幻)が必要だと思います。聖書はイエス・キリストと「神の国」に向かって歩こうとよびかけてくれます。そして、「神の国」を幻のように描いています。たとえば「剣を打ち直して鋤とし、やりを打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものはなにもない」(ミカ書4:3,4)。真の平和が尊重され、脅かすものはなにもないそういう世界に向かって生きたいですね



